クレストン:歴史


厳しい冬の気候の為、初期の北アメリカの住人は年間を通してサン・ルイス・バレーに暮らすことはできなかったが、次第に10余りのネイティブ・アメリカンの部族がこの地を聖なる物を求める祈り、ビジョン・クエストのために使うようになってきた。広がる光景、澄みきった流れ、ビャクシンやマツの点在するサングレ・デ・クレスト山脈の斜面 を見渡せば、なぜ初期のコロラドの人々がこの地を聖なる地と見なしたかは容易に想像できる。「平和の谷」として知られ、ウート、プエブロ、ナバホや他のサウス・ウエストの部族にとって人類出現の場所 "Sipapu" とみなされる聖なる場所である。この "Sipapu" は世界が浄められ、新しく作りかえられるための地球規模の大洪水があった際の避難場所であったとされている。

一説には、1540年にスペインの探検家フェルナンド・コロナードの一行が最初のヨーロッパ人としてこの壮大な土地にやって来たといわれる。これら征服者がこの地で非常に欲しがっていた金をかつて発見したかどうかは定かではない。しかし、18世紀半ばまでは、金はこの地に非常に豊富であり、黄色い金を流し桶であらい採掘していたアメリカの探鉱者は、18世紀からこの地に暮らしてきた。土地を与えられたスペイン人の農民や牧場主よりもはるかに上回る数であった。19世紀半ば頃までクレストンの新興都市は全盛期を迎えた。クレストンの金鉱のなごりは、移民によって建てられた100年の年月を経た石壁に見られ、その金鉱山跡地に神慈秀明会のセンターが建設される。壁は現在修復され、最終的にはセンターの建物の設計に組み込まれる。

20世紀初頭、金は掘り尽くされ、金から生まれた鉱業は労働者の嘆きの中、すたれていった。その上、クレストンの町はゴーストタウン同然となり、その住民といえば町の墓に眠る人々が大半となった。

17世紀にスペイン王が伝説のバッカ家に土地の無償払い下げを認めて以来存続する、牛の放牧の復活とともに町は再生した。20世紀になるとクレストンはその良質の牛で好評を博し、世紀の半ばにはアメリカ最高のヘレフォード種の牛の産地となった。伐採搬出業もこの頃からこの地に持ち込まれ、山脈の谷や斜面 を覆う森を削り、丸太を引き出す道や不毛な切り株でその輝きを傷つけていった。

しかし、人間の居住と開発の歴史を通 じても、この地域はその原始の美を保ち続け、元来の自然の神聖な魅力は失われなかった。今日、クレストンの魅力は、いまだ芸術家や様々な精神的な道を模索する人々、環境保護活動家たちの心をとらえている。マニトゥ・ファンデーションやリンディスファーン・アソシエーションはこの地区で積極的に活動している。

この美と自然と精神の交錯する土地に*神慈秀明会はクレストンセンターを建設している。世界の人々の幸せのために捧げられ、ネイティブ・アメリカンの祖先にあったような、神慈秀明会の人々にとってもふさわしい"Sipapu"、世界が浄められ、より良く生まれ変わる準備をする場所となる。

 

* 神慈秀明会に関する詳細、理念、活動に関しては、Shumei.orgをご覧ください。